2017-06-26(Mon)

6・23沖縄慰霊の日 (1) 新たな「戦前」にさせない

不戦の誓い」を語り継ぐ 戦争の惨禍再び起こさせない 憲法は届いているのか 

<各紙社説・主張・論説>
朝日新聞)沖縄慰霊の日 遺骨が映す戦争の実相(6/23)
毎日新聞)きょう沖縄慰霊の日 「不戦の誓い」を語り継ぐ(6/23)
東京新聞)沖縄 あす慰霊の日 大田元知事を偲んで(6/22)
しんぶん赤旗)沖縄「慰霊の日」 戦争の惨禍再び起こさせない(6/22)
北海道新聞)沖縄慰霊の日 憲法は届いているのか(6/23)

琉球新報)沖縄全戦没者追悼式 「積極的平和」を次世代に(6/24)
琉球新報)慰霊の日 新たな「戦前」にさせない(6/23)
沖縄タイムス)社説[全戦没者追悼式]終わらぬ戦後浮き彫り(6/24)
沖縄タイムス)[きょう慰霊の日]聴くことから始めよう(6/23)




以下引用



朝日新聞 2017年6月23日05時00分
(社説)沖縄慰霊の日 遺骨が映す戦争の実相


 沖縄はきょう、先の大戦で亡くなった人たちを悼む「慰霊の日」を迎える。
 米軍を含めて約20万人が命を落とした。うち一般県民9万4千人の犠牲者とその遺族にとって、ささやかな、しかし意義深い政策の見直しがあった。
 厚生労働省が、死者の身元を特定するための遺骨のDNA型鑑定を、今年度から民間人にも広げると発表したのだ。塩崎厚労相は4月の国会で、「できるだけ多くの方にDNA鑑定に参加をいただいて、一柱でも多くご遺族のもとにご遺骨をお返しできるように最大限の努力をしたい」と答弁した。
 遅すぎた感は否めないが、この方針変更を歓迎したい。
 DNA型鑑定は2003年度に導入された。しかし、遺骨の発見場所や埋葬記録などがある程度わかっていることが条件とされたため、対象は組織的に行動していた軍人・軍属らに事実上限られてきた。
 事情はわからないでもない。だが「軍関係者限り」とは沖縄戦の実相からかけ離れた、心ない対応と言わざるを得ない。
 沖縄ではいまも、工事現場や「ガマ」と呼ばれる洞窟などから、多くの遺骨が見つかる。それは県土、とりわけ中部から南部にかけての広い範囲が戦場になったことの証しである。
 72年前の4月1日の米軍の本島上陸以来、凄惨(せいさん)な地上戦が繰り広げられた。兵士と市民が入り乱れ、各地を転々とし、追いつめられ、亡くなった。親族がどこで命を落としたのか分からないと話す県民は多い。
 長年、遺骨収集を続けてきたボランティアたちが「国はすべての遺骨と希望者について鑑定を行うべきだ」という声を上げるのは当然である。
 もっとも、焼かれてしまった骨からDNAを検出するのは難しいとされ、糸満市摩文仁(まぶに)の国立戦没者墓苑に眠る18万5千柱の多くは対象にならない。当面は、13年度以降に見つかった600柱余の未焼骨のうち、10地域の84柱について鑑定を進めるという。希望する遺族からDNAを提供してもらい、骨と比較する手法をとる。
 大臣答弁のとおり、少しでも多くの遺骨を返すため、厚労省をはじめ関係機関は幅広く遺族に呼びかけ、対象地域も順次拡大していってほしい。その営みが、戦争の真の姿を次世代に伝えることにもつながる。
 沖縄はいまも米軍基地の重い負担にあえぐ。沖縄戦を知り、考え、犠牲者に思いを致すことは、将来に向けて状況を変えていくための土台となる。
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毎日新聞2017年6月23日 東京朝刊
社説:きょう沖縄慰霊の日 「不戦の誓い」を語り継ぐ


 沖縄はきょう「慰霊の日」を迎えた。太平洋戦争末期、沖縄に上陸した米軍と日本軍との組織的な戦闘が終結した日である。
 日本軍が本土防衛の時間稼ぎのために持久戦を展開し、日米の軍人と民間人約20万人が犠牲になった。
 それから72年。今年も最後の激戦地となった糸満市の平和祈念公園で沖縄全戦没者追悼式が開かれる。
 嵐のような砲爆撃や住民の集団自決など「ありったけの地獄を集めた」と表現された沖縄戦の惨劇を記憶にとどめ、語り継ぐ糧にしたい。
 「二度と戦争をさせない、沖縄を戦場にさせない、と誓った」。12日に92歳で亡くなった大田昌秀(まさひで)・元沖縄県知事は生前こう語っていた。
 学徒動員で鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)に加わり、壮絶な地上戦を目の当たりにする。米軍は猛烈な砲撃を浴びせ、日本兵が住民に銃を突きつけた。
 知事時代の1995年、沖縄戦犠牲者の名を刻んだ「平和の礎(いしじ)」を平和祈念公園に建立した。
 軍民や国籍を問わず戦没者を慰霊するのは、戦争に勝者はいないという思いからだ。その原点は、沖縄戦の経験にある。
 沖縄戦には未解決の課題もある。遺族が高齢化するなか、戦没者遺骨の特定が進んでいない。
 厚生労働省は軍人・軍属に限ってきたDNA鑑定を今夏から戦没者の半数を占める民間人にも広げる。
 戦没者遺骨の収集を「国の責任」と位置付けた法制定を受けた対応だ。戦後70年余を経ての方針転換であり、遅すぎた感は否めない。
 もともとDNA鑑定による特定には困難が伴う。沖縄県内では18万柱超の遺骨が収集されたが、身元が判明したのはごくわずかだ。
 対象区域も限定されている。戦没者には朝鮮や台湾の人も含まれるという。将来は希望するすべての遺族を対象とすべきだ。
 過重な米軍基地負担は沖縄戦の痕跡だ。27年間の米統治後も基地の返還は進まず、今に至っている。
 政府が「反基地」の県民感情を直視する姿勢を示さなければ、対立は先鋭化するばかりだろう。
 沖縄戦の記憶は原爆投下とともに日本の平和主義の立脚点の一つになっている。その認識を改めて国民全体で共有したい。
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東京新聞 2017年6月22日
【社説】沖縄 あす慰霊の日 大田元知事を偲んで


 沖縄県の大田昌秀元知事が亡くなりました。鉄血勤皇隊として激烈な沖縄戦を体験し、戦後は一貫して平和を希求した生涯でした。沖縄はあす慰霊の日
 人懐っこい笑顔の中に、不屈の闘志を感じさせる生涯でした。
 今月十二日、九十二歳の誕生日当日に亡くなった大田さん。琉球大学教授を経て一九九〇年から沖縄県知事を八年間、二〇〇一年から参院議員を六年間務めました。
 ジャーナリズム研究の学者として沖縄戦の実相究明に取り組み、知事時代には「絶対に二度と同じ悲劇を繰り返させてはならない」との決意から、平和行政を県政運営の柱に位置付けます。
◆「平和の使徒」として
 敵味方や国籍を問わず戦没者の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」を建立し、沖縄県に集中する在日米軍基地の撤去も訴えました。
 「全ての人々に、戦争の愚かさや平和の尊さを認識させるために生涯を送った『平和の使徒』だった」。長年親交のあった比嘉幹郎元県副知事は告別式の弔辞で、大田さんの生涯を振り返りました。
 大田さんはなぜ、学者として、そして政治家として一貫して平和の大切さを訴えたのでしょうか。
 その原点は、大田さんが「鉄血勤皇隊」として、凄惨(せいさん)な沖縄戦を体験したことにあります。
 太平洋戦争末期、沖縄県は日本国内で唯一、住民を巻き込んだ大規模な地上戦の舞台と化します。当時、四十万県民の三分の一が亡くなったとされる激烈な戦闘でした。
 鉄血勤皇隊は、兵力不足を補うために沖縄県内の師範学校や中学校から駆り出された男子学徒らで編成された学徒隊です。
 旧日本軍部隊に学校ごとに配属され、通信、情報伝達などの業務のほか、戦闘も命じられました。女子学徒も看護要員として動員され、学校別に「ひめゆり学徒隊」などと呼ばれます。
◆醜さの極致の戦場で
 沖縄県の資料によると、生徒と教師の男女合わせて千九百八十七人が動員され、千十八人が亡くなりました。動員された半数以上が犠牲を強いられたのです。
 沖縄師範学校二年に在学していた大田さんも鉄血勤皇隊の一員として動員され、沖縄守備軍の情報宣伝部隊に配属されました。大本営発表や戦況を地下壕(ごう)に潜む兵士や住民に知らせる役割です。
 当初は首里が拠点でしたが、後に「鉄の暴風」と呼ばれる米軍の激しい空襲や艦砲射撃による戦況の悪化とともに本島南部へと追い詰められます。そこで見たのは凄惨な戦場の光景でした。
 最後の編著となった「鉄血勤皇隊」(高文研)にこう記します。
 「いくつもの地獄を同時に一個所に集めたかのような、悲惨極まる沖縄戦」で「無数の学友たちが人生の蕾(つぼみ)のままあたら尊い命を無残に戦野で奪い去られてしまう姿を目撃した」と。
 多くの住民が戦場をさまよい、追い詰められ、命を落とす。味方であるべき日本兵が、住民を壕から追い出し、食料を奪う。
 「沖縄戦は、戦争の醜さの極致だ」。大田さんが自著の中で繰り返し引用する、米紙ニューヨーク・タイムズの従軍記者ハンソン・ボールドウィンの言葉です。
 その沖縄戦は七十二年前のあす二十三日、日本軍による組織的な戦闘の終結で終わります。大田さんも米軍の捕虜となりました。
 戦後、大学教授から県知事となった大田さんが強く訴えたのが沖縄からの米軍基地撤去です。
 背景には「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦からの教訓に加え、なぜ沖縄だけが過重な基地負担を強いられているのか、という問い掛けがあります。
 沖縄県には今もなお、在日米軍専用施設の約70%が集中しています。事故や騒音、米兵による事件や事故は後を絶ちません。基地周辺の住民にとっては、平穏な暮らしを脅かす存在です。
 七二年の本土復帰後を見ても、本土の米軍施設は60%縮小されましたが、沖縄では35%。日米安全保障条約体制による恩恵を受けながら、その負担は沖縄県民により多く押し付ける構図です。
◆進まぬ米軍基地縮小
 九五年の少女暴行事件を契機に合意された米軍普天間飛行場の返還でも、県外移設を求める県民の声は安倍政権によって封殺され、県内移設が強行されています。
 そこにあるのは、沖縄県民の苦悩をくみとろうとしない政権と、それを選挙で支える私たち有権者の姿です。大田さんはそれを「醜い日本人」と断じました。
 耳の痛い話ですが、沖縄からの異議申し立てに、私たちは誠実に答えているでしょうか。
 慰霊の日に当たり、大田さんを偲(しの)ぶとともに、その問い掛けへの答えを、私たち全員で探さねばならないと思うのです。
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しんぶん赤旗 2017年6月22日(木)
主張:沖縄「慰霊の日」 戦争の惨禍再び起こさせない


 あす23日は、沖縄の「慰霊の日」です。日本軍国主義の対外侵略で始まったアジア太平洋戦争の末期・1945年の沖縄戦で、日本軍の組織的な抵抗が終わった日とされます。沖縄戦最後の激戦地、本島南端の摩文仁(まぶに)の丘にある平和祈念公園(糸満市)では、県主催の追悼式が開かれます。軍事基地など戦争につながる一切を否定し、恒久の平和を希求する“沖縄の心”の原点は、沖縄戦の壮絶な体験にあります。「慰霊の日」に込められた「戦争による惨禍が再び起こることのないよう」(県条例)にするとの県民の決意を全国でともにすることが必要です。
遺族への遺骨返還早く
 沖縄戦で米軍の捕虜になり、ハワイの収容所に移送されて亡くなった12人の沖縄県出身者を追悼する「慰霊祭」が今月4日、戦後72年にして初めて、ホノルル市内で開かれました。遺族をはじめ、元捕虜として、「慰霊祭」実行委員会共同代表の渡口彦信さんや「鉄血勤皇師範隊」の学徒兵だった古堅実吉・日本共産党元衆院議員が参加しました。
 日本人捕虜としてハワイに連行されたのは沖縄県出身者に限られ、その数は約3000人といわれます。大半は帰国できましたが、12人は激烈な沖縄戦を生き延びたものの、移送先で病気やけがなどによって命を落とし、沖縄の地を再び踏むことはありませんでした。12人の遺骨は不明のままです。
 戦後72年もたつのに遺骨を遺族に返すことができない―。沖縄では今、こうした問題の解決が切実に求められています。
 厚生労働省の統計によると、沖縄戦の日本人戦没者数は18万8136人(軍人・軍属含む)に上り、遺骨収集数は18万7374人となっています。ところが、厚労省が2003年度から始めたDNA鑑定で身元が判明した遺骨は4人だけで民間人はいません。鑑定は遺骨の発見場所と遺族の関係を証明することなどが条件になっており、遺族ですら家族がどこで亡くなったか分からないのが実情です。希望する遺族には無条件で実施することが、国の最低限の責務です。
 遺骨問題が示すように、沖縄戦は凄惨(せいさん)を極めた戦争でした。「ありったけの地獄を集めた」と形容されるゆえんです。古堅さんは当時、本島南部へと逃げる途中、死体に母の乳を求めてすがる乳児を見つけ、あまりのむごさに身も心もちぎれる思いでしたが、どうすることもできず立ち去った無念の思いを著書などで語っています。
 安倍晋三首相は、「戦争する国」づくりを進め、憲法9条改憲を明言し、海外での武力行使を無制限に可能にしようとしています。沖縄では、県民大多数の意思を踏みにじり、名護市辺野古での米軍新基地建設を強行しています。いずれも、“沖縄の心”を乱暴にじゅうりんするものです。
9条守り、新基地に反対
 辺野古を含む本島北部(ヤンバル)は、沖縄戦の激戦地となった南部の人びとなどが避難し、命を救われた土地です。その“恩義の土地”に、戦争につながる米軍新基地が造られ、他国に攻め込む拠点になることに、沖縄戦で九死に一生を得た体験者はとりわけ胸をえぐられる思いを抱いています。
 憲法9条を守り、「基地のない平和な沖縄」への道を開くたたかいを強めることが大切です。
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北海道新聞  2017/06/23 08:55
社説:沖縄慰霊の日 憲法は届いているのか


 沖縄はきょう、戦没者を追悼する慰霊の日を迎える。
 72年前、「鉄の暴風」と呼ばれた壮絶な地上戦で日米合わせて20万人を超す命が失われた。このうち沖縄の住民の死者は9万4千人といわれている。
 平和への誓いを新たにするこの日を前に、沖縄の米軍基地問題を全国に訴え続けた元県知事の大田昌秀氏が92歳で死去した。
 大田氏は、平和主義や基本的人権の尊重をうたう憲法の理念が沖縄に届いているのかという憤りを、常に語っていた。
 平和憲法の下にある日本へ復帰したはずの沖縄には、今も米軍基地が集中している。
 返還される普天間飛行場の移設先とされてしまった名護市辺野古では、政府による力ずくの新基地建設が始まった。
 憲法より日米安保体制が優先されるかのような現実が、この島にある。全ての国民がそこに目を向けなければならない。
 国土面積の0・6%しかない沖縄には、全国の米軍専用施設面積の70%が存在している。
 昨年12月の北部訓練場約4千ヘクタールの返還によって、それ以前の74%からはわずかに減少した。
 政府はそれを、基地負担の軽減が進んだとして「成果」を誇っている。
 だが、返還条件として訓練場の残る区域に6カ所のヘリパッドを建設し、新型輸送機オスプレイを運用させる。騒音被害や事故の懸念はむしろ深刻化するだろう。
 オスプレイは半年前、名護の海岸に落ちる事故を起こしたが、日本側の捜査は日米地位協定の壁に阻まれた。
 「自分の空でありながら、自分の海でありながら、自分の土地でありながら自由に使えない」
 大田氏が講演でこう語ったのは、知事在任中の1994年のことである。
 沖縄を取り巻く状況はその後も基本的には変わらず、国への異議申し立ての声は強まっている。
 普天間の辺野古移設を巡り、政府は4月に護岸工事を強行した。これに対し翁長雄志(おながたけし)知事は、新たに国を相手取り工事差し止めの訴訟を起こす方針を表明した。
 基地をたらい回しするなという主張を真摯(しんし)に聴こうとしない政府に対抗するための、やむにやまれぬ措置だろう。
 追悼式典には安倍晋三首相も出席する。負担は軽減されていないという事実を直視し、沖縄の声に耳を傾ける機会とすべきである。
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琉球新報 2017年6月24日 06:01
<社説>沖縄全戦没者追悼式 「積極的平和」を次世代に


 沖縄全戦没者追悼式で翁長雄志知事は、憲法施行70年に触れ「平和主義の理念を再確認」し、故大田昌秀元知事の功績である「『平和の礎』に込められた平和の尊さを大切にする想いを次世代へ継承する」と平和宣言した。
 沖縄戦から72年。沖縄戦は本土決戦の準備が整うまで、一日でも長く米軍を引きとめる「出血持久戦」だった。軍民が混在する中で住民の4人に1人が犠牲になった。今後、平和教育の在り方を含め、あらゆる分野で軍隊は住民を守らないという「命どぅ宝」の教訓の継承に取り組みたい。
 憲法の前文に示された理念は、平和学者のガルトゥング氏が唱える軍事力に頼らない「積極的平和」である。平和宣言で翁長知事は、人権侵害、難民、飢餓、貧困、テロなどに対し世界中の人々が民族や宗教の違いを乗り越え、協力して取り組むことを呼び掛けた。まさに「積極的平和」宣言である。
 米国との軍事的一体化に前のめりで、憲法に抵触する集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法を成立させた安倍晋三首相の「積極的平和主義」の対極にある。
 一方、平和宣言は辺野古新基地建設をはじめとする米軍基地問題に半分近くさいている。これが沖縄戦から72年、施政権の返還から45年たった沖縄の現状だ。
 米軍基地の源流は沖縄戦にある。普天間飛行場は米軍が沖縄本島上陸後、住民を収容所に隔離した上で土地を奪って建設された。1945年8月4日時点で、1本の滑走路の71%が完成している。
 日本への出撃拠点とする目的で建設したわけだから、日本の降伏によって目的は果たしたはずだ。ハーグ陸戦条約に従い、その時点で返還すべき軍事施設だ。普天間返還を巡って日米両政府は、名護市辺野古に移設する条件を付けているが、無条件で返還されなければならない。
 安倍首相は追悼式のあいさつで「県内の米軍施設の約2割に相当する北部訓練場の過半、本土復帰後最大の返還が実現した」と実績を強調した。しかし、北部訓練場が返還されても、米軍専用施設面積からすると、これまでの74・4%から70・4%に微減したにすぎない。北部訓練場の過半返還に伴い、ヘリパッドが集約された結果、東村高江に騒音が集中している。
 平和宣言で知事が指摘したように、現状はオスプレイの墜落、嘉手納飛行場でのパラシュート降下訓練や相次ぐ外来機の飛来、移転合意されたはずの旧海軍駐機場の継続使用など「基地負担の軽減とは逆行している」のである。首相は負担軽減を印象操作せず、沖縄の現実を直視しなければならない。
 安倍首相は「できることはすべて行う」と述べた。ならば辺野古新基地建設の断念、日米地位協定の抜本的見直し、海兵隊の撤退に向けて有言実行すべきである。
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琉球新報 2017年6月23日 06:01
<社説>慰霊の日 新たな「戦前」にさせない


 糸満市摩文仁の沖縄師範健児之塔に向かう約150メートルの通路は階段が続き、お年寄りには長く険しい。子や孫に両脇を支えられながら、つえを突きながら、慰霊祭へ一歩一歩足を運ぶ光景も、年を追うごとに少なくなってきた。
 師範鉄血勤皇隊の生存者として、一昨年、昨年と出席していた大田昌秀元知事の姿も今年はもう見られない。
 沖縄戦体験者は県人口の1割を切ったとされる。激烈な地上戦から生き延びた方々から証言を聞ける時間は、確実に残り少なくなっている。
 沖縄戦から72年、慰霊の日が巡ってきた。体験者が年々減る中、次世代へどう継承していくか模索が続く。一方で政府は世論の反対をよそに戦争ができる国づくりへと法整備を進める。多くの国民の命を奪った国策の誤りを二度と繰り返させてはいけない。
 今年は沖縄戦継承に大いに貢献する「沖縄県史各論編6 沖縄戦」が発刊された。1970年代刊行の旧県史は、それまでの軍人中心の記録を住民史観に転換させた。新県史は「障がい者」や「ハンセン病」「戦争トラウマ」など弱者にも光を当て、「基地建設」など今日的課題にも言及した。沖縄戦研究の集大成であり、大田氏ら第一世代から中堅若手の研究者に引き継がれていることは頼もしい。
 沖縄戦は決して歴史上の出来事だけではない。今につながる米軍基地問題の原点であり、不発弾や遺骨収集、戦争トラウマなど、今を生きる私たちにも影響する問題だ。
 今年の慰霊の日は「共謀罪」法が強行成立した中で迎えた。民主主義の手続きを放棄し、数の力で押し切るやり方は権力の暴走だ。
 2012年の第2次安倍政権発足以降、国家主義の色濃い政策が推進されている。
 13年の国家安全保障会議(日本版NSC)創設、特定秘密保護法成立、14年の武器輸出三原則の見直し、集団的自衛権の行使容認、15年の日米防衛協力指針(ガイドライン)再改定、安全保障関連法成立と、日米同盟強化や政府権限拡大につながる政策だ。
 最終目標は憲法9条見直しだろう。軍隊と警察を強くし国家権力を強める。個人の権利を制限し、国益を優先させることを許してはならない。
 沖縄戦の目的は沖縄の住民を守ることではなく、国体護持、本土防衛のための捨て石作戦だった。多数の住民を根こそぎ動員で国策に協力させた末に、軍民混在となった戦場で死に追いやった。
 政府は今も、沖縄で国策優先の辺野古新基地建設を強行している。大のために小を切り捨て、沖縄に犠牲を強いる構図は当時と変わらない。
 戦前の空気が漂う中、戦争につながるあらゆるものを拒否し、今を新たな「戦前」にはさせないと改めて決意する日としたい。「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の教訓を胸に刻み、この地を二度と戦場にさせてはいけない。
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沖縄タイムス 2017年6月24日 08:00
社説:社説[全戦没者追悼式]終わらぬ戦後浮き彫り


 「慰霊の日」の23日、県内各地で慰霊祭が執り行われた。
 糸満市摩文仁の「平和の礎」。早朝から多くの遺族が訪れ、親族の名前が刻まれた刻銘板を前に飲み物やごちそうを供えていた。慈しむように名前をなぞったり、み霊に語り掛けたりする姿も。
 同市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」。孫やひ孫を連れてきたお年寄りが多く見られた。家族に支えられながら手を合わせる車いすの高齢者も目立った。
 島が平和の祈りに包まれる中、摩文仁の平和祈念公園では沖縄全戦没者追悼式が営まれた。沖縄戦から72年がたつが、「沖縄の終わらない戦後」が改めて浮かび上がった追悼式だった。
 翁長雄志知事は平和宣言で、昨年の元米兵による女性暴行殺人事件、オスプレイ墜落、パラシュート降下訓練、相次ぐ外来機の飛来、嘉手納基地の旧海軍駐機場の継続使用を一つ一つ取り上げ、「基地負担の軽減とは逆行している」と指摘した。
 埋め立て護岸工事が始まっている辺野古新基地建設問題は、就任以来3年連続で言及。昨年まで「許容できない」との表現だったが、今回は「沖縄の現状を真(しん)摯(し)に考えてほしい」と国民にも呼び掛ける内容を付け加えた。
 会場からは翁長知事の平和宣言の節目節目に、拍手がわき起こった。翁長知事が「辺野古に新たな基地を造らせないため、今後も県民と一体となって不退転の決意で取り組む」と表明。7月の差し止め訴訟提訴に向けた決意を示すとまた大きな拍手が起きた。
■    ■
 翁長知事ばかりではない。県遺族連合会の宮城篤正会長も昨年に引き続き「戦争につながる新たな基地建設には遺族として断固反対する」と強い意志を示した。
 安倍晋三首相を前にした訴えであり、首相は真剣に受け止めるべきだ。
 一方、安倍首相は、米軍北部訓練場の約半分の返還を本土復帰後最大の返還とアピール。負担軽減の「実績」を自画自賛した。しかし東村高江集落を取り囲むようにヘリパッド(着陸帯)を6カ所新設することが返還条件で、生物多様性に富む森林を切り開く突貫工事だった。先行使用しているヘリパッドではオスプレイが低空飛行で特有の爆音をまき散らし、集落の日常生活を破壊している。
 安倍首相のあいさつに会場は冷ややかだった。翁長知事と安倍首相の乖(かい)離(り)は、沖縄と本土の認識の隔たりを象徴しているように見える。
■    ■
 沖縄の米軍基地建設は、米軍の上陸とともに始まり、戦後は住民が収容所に入れられている間につくられていった。1950年代には海兵隊が本土から米軍統治下の沖縄に移駐してきた。
 反対運動の激化で本土では米軍基地が減る一方で、沖縄では増加していった。これが沖縄に約70%の米軍専用施設が集中する現在につながっているのである。
 基地負担の問題だけではない。戦没者遺骨のDNA鑑定を民間人に拡大して集団申請する動きが具体化している。沖縄は戦争が終わったといえるのだろうか。
あわせて読みたい
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沖縄タイムス 2017年6月23日 07:40
社説[きょう慰霊の日]聴くことから始めよう


 それぞれの場から「沖縄戦」を発信し続けた偉大な先輩たちが、ことし相次いで泉下の人となった。
 戦争の惨禍や平和への思いをうちなーぐちによる一人芝居で表現した女優の北島角子さん。土着の視点で、戦争のおぞましさや民衆のたくましさを描いた版画家の儀間比呂志さん。沖縄戦で級友を失った体験を原点に、平和行政と基地問題解決に心血を注いだ元知事の大田昌秀さん。
 戦前・戦中・戦後と激動の沖縄現代史を生き抜いた人たちが一人また一人と旅立っていく。時代の変わり目だけに喪失感は深い。
 沖縄戦は記憶の継承という点から大きな曲がり角に差し掛かっている。
 現実に子どもたちが戦争を学ぶ機会も減りつつある。 
 戦争の被害や生き残った人たちの証言などを伝える県平和祈念資料館。県内小中高校の利用は、2000年度の368校から16年度は224校に減った。
 ひめゆり学徒の体験を伝えるひめゆり平和祈念資料館も県内小中高校の来館数が、16年度は72校とピーク時の半分まで落ち込んでいる。
 ここ数年、学校現場では学力向上の取り組みが優先され、校外学習行事を減らす傾向にあるのだという。
 この世代は、親だけでなく祖父母もほとんどが戦争を知らない。身近に体験を語る人がなく、学校も平和学習に時間が割けないとしたら、沖縄戦体験は風化し、平和への意識は希薄化する。
■    ■
 鉄血勤皇隊として戦場をさまよった大田さんは、「おもろさうし」研究の第一人者・故外間守善さんとともに、終戦から8年後の1953年「沖縄健児隊」を世に問うた。
 外間さんは同著の序文で「彼等は永遠に黙している。しかし彼等は永遠に語っているのだ。その声を取りつぐのが私たち生かされたもののただ一つの義務」と記す。 
 大田さんの訃報に接してあらためて感じたのは、10代の多感な年頃に戦場に動員された「学徒隊」の人々の語り部としての存在の大きさである。
 戦前、沖縄には師範学校や中等学校が21校あり、全ての学校の生徒が戦場に駆り出され、多くの命を失った。大田さんらは犠牲となった級友に代わって沖縄戦の実相を伝えてきたのだ。
 しかしその語り部たちも一人、二人と鬼籍に入り、沖縄戦継承は非体験者のバトンリレーという新たな段階を迎えつつある。
■    ■
 アーティスト・山城知佳子さんの「あなたの声は私の喉を通った」は、戦争を体験した高齢者の語りを、自身の姿に重ね、再現した映像作品である。証言の持つ重みを引き受け、他者の感覚に近づこうとする試みだ。
 ひめゆり資料館が進める戦後世代による語りも、継承の課題に真正面から取り組む。海外の平和博物館を訪ねるなど在り方の模索も続く。
 きょうは「慰霊の日」。
 戦争を学ぶ努力を放棄すれば風化は加速する。体験者から話を聴くことができる最後の世代として、歴史を伝達する重みを胸に刻みたい。
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